遅すぎることはない 気づいた時がその時です

「ベロニカとの記憶」を観ました

※ネタバレあります

小さなカメラ店を営む年老いた男に、ある日一通の手紙が届く。はるか昔に交際していた女性の母が亡くなり、その遺言により一冊の日記が渡されるという内容だった。その日記は男が青春を共にした、かつての親友が書いたものであった。

なぜ、その母親の遺言が自分に?
どうして友の日記を持っていたのか?
そして日記の内容とは?

次々と明るみになる真実。男は若き時代に自分のとった行いに愕然とする。

宣伝ではミステリーをうたっていますが、鑑賞してみるとミステリー部分はあるものの、軸は「誰にもしでかした過去はある」という、心ザワつく作品でした。

映画は現代の老人のシーンと青春時代の若かりしころのシーンが交錯します。

勢いにまかせて書いた取り返しのつかない手紙。
それを忘れて都合よく書き換えられた自分の記憶。
その裏で過酷な人生を歩み続ける、かつて交際していた女性とその家族。

誰もが経験したことがあるのではないでしょうか

映画では、自分の手紙がかつての友を死に追いやったのではないかと描写されています。(真実はわかりません)

そこまでの業はそうそうあることではないと思いますが、自分の若かりし日を思い出さずにはいられませんでした。

間違った言葉を放ち、配慮や思慮に欠け、非礼や無礼を働いていたこともあっただろうなと。

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大人になってみえてくる

大人がそれらをとがめなかったのは、「若者を許す」というよりは、「かつての自分を重ね合わせ、その自分を許している」のではないかと。(とがめられるほど大層なことはしてなかった可能性もありますが)

実際にいまの自分はそうです。

「気配りができて、素直で明るく、前向きで如歳ない」。若い時からそんな人間だったら言うことなしですが、そんな若者がいたとしても、なんだかツマラナいと感じてしまう面もあります。

後ろを振り向き反省するより、非難が怖くて足踏みするより、前進する姿こそワカモノの特権だと思うのです。(だからといって何をしても良いってことではありませんよ)

そしてね、大人になってふと思い出し、

あああああああああああ(あの時の自分を蹴っ飛ばしたい)

って過去の行いに悶えるんです。

本当の自分は日記にも存在しない

映画では、最後まで老人に日記は渡りません。あいだに入った人間が、「読まない方がよい」と判断したのでしょう。

仮に老人がかつての友の日記を読んでしまったとしたら、その後の人生、罪の意識を背負い生きていかねばならないのかもしれません。

しかし、ここで思うのです。

日記だからといってどこまでが本心なのだろう? と。

日記は本心であって本心ではなく、人によっては「いずれ誰かの目に触れても良いだろう」という範囲で書かれたものもあるのでは? と思うのです。逆に日記でしか吐き出せないドロドロとした心情を書き連ねている場合もあるでしょう。

いずれにしろ、その時、その「点」においては本心かもしれません。ですが、人間の気持ちは変わりますし、思い出は書き換えられます。それ以前に、同時に相反する感情を抱いたり、時には自分自身をあざむくこともあり、それは4次元から5次元の領域で複雑なものです。

映画館で観て良かった

大きなスクリーンで観る良さはアクション映画だけにあるのではありません。

こういった感情の機微をしっとりと淡々と綴る作品こそ、映画館という空間があいます。

映画の主人公は、その年になってわかった真実に「心を痛めた」だけでは終わらせません。それらを受け止め、動き出します。配慮が足りなかった相手には謝り、昔の恋人には「気付けなくて、知らなくて、知ろうともしなくて悪かった」と言葉に出し伝えます。

遅すぎることはありません。変わりたい、変えようと思ったときがその時なんです。

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