応援は「する側」にも喜びがあります

ひとは応援したい生き物なのかもしれない

おとなしい応援もある

オリンピックやワールドカップといったスポーツ競技、役を得るためのオーディションや賞レース。派手で明確なゴールがあるものにこそ「応援」という言葉がフィットします。

けれど、最近ある若者と会いまして、その地道な頑張りに「応援したいな。させてほしいな」と思いました。

出資金を出すとか大口を紹介するとか、そういったことではなくて。(お金もコネも持っていませんので、したいと思ってもできませんがね)

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どう過ごしているかは透けてみえるものだ

その若者と話をしてわかったのは、ボーっとただ時間が過ぎる日々を送っているのか、それとも、なにがしかを得ようと日々を過ごしているのかが、会話や本人の雰囲気でいとも簡単に他者にはわかってしまうのだなと。

その若者が体験や勉強したことは、自信にも繋がり引き出しも増え、本を読めば知識も広がり、今後仕事にもプライベートにも活かされていくことでしょう。

(過去、自分がダラけていたときは、まわりにはお見通しだったのかも… と、わが身を振り返るとゾっとしました(^_^;)。自分が思うほど他人は自分に興味がないとわかっていますが、仮に人物としてジャッジされているとしたら、って視点でみるとね。コワいデス)

全員がそうであれとも思わない

なにもしない時があってもいい

ここで話がブレてしまいますが、人はみな100%ポジティブであれ、とか、常に頑張って向上心を忘れるな、とも思いません。

追い求めすぎると息苦しくなってしまいそうですし、平穏な日常でも充分意味があるというか。いえ、意味なんてなくてもいいって思っています。

ちいさな応援でも応援は応援

けれど、まぁ、頑張っている人がいたら、それは応援したくなっちゃいます。自分はなにもしていないのに、その人の頑張りに乗っかっちゃってそれってどうなの、といったことではなく、ただ純粋に見守っていたくなるというか、見届けたいというか。

その過程で、少しでも力になれることがあったら協力は惜しみませんよ、と。

小さな気持ちですが、そういった「氣」を集められることは無駄にはならないと思うんです。応援する側がいうことではないかもしれませんが。

応援したくなる人間が現れるのをまってる人もいます。それは余裕がある人だったりもするし、そうでない人もいます。

後者の私は、サイレントサポーターとして静かにその若者の成功(成長)を願っております。

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