
※今は「脱・ミニマリスト」です。
先日ある方のサインをいただく機会があったのですが、正直もらうべきかどうか迷いました。
サインをもらってどうする?
仮に処分するにしたって気が引けるじゃないか。
と。
いままで誰かに直にサインを書いてもらったことがないので「必要なのかどうか。欲しいと思っているのかどうか」の判断が瞬時にできませんでした。
飲食店や観光地に飾られた色あせた有名人たちのサイン色紙を見るたびに、「こんなに大勢の有名人がここを訪れたのか」といった感想とともに「このサインがなければもっと良い内観になるだろうに」とも思うこともありました。
サインを書く人→「求められたから」
お店側→店の人気のバロメーター
お店に行くお客→「あー、この人も来たんだ」と感心し「このサイン誰?」と会話のネタに
三者「win-win-win」だと思えば、お店に飾る理由も意味もあるのはわかかるのですが、今回はいただいたところでそのサインを見るのは私のみ。
考えた結果サインを書いてもらったわけですが、結論をいうと
もらってよかった
です。
その方にとっては何百何千何万回と書いたサインの一回にすぎませんが、私にとっては「一分の一」の貴重な思い出となりました。
時間にして10秒、いや5秒かな。目の前で走るペンを見ていてなんだか不思議な気持ちがしました。
膨大な時間のなかでその数秒だけは「その世界」が成立しているのだなぁと。
普段、サインを書いてもらえるような環境に足を踏み入れることはないので、余計そう思ったのかもしれません。遠くの出来事だと思ってました。
おそらくミニマリストにハマっている時だったらサインを求めることはなかったと思います。
・余計なものは極力排除したい
・容易に新しくモノを入れるなんてあるまじき行為
・サインをもらったからと言って何がどうなるというのだ
と、速攻サインはいらないもの、必要のないものとして認識していたはず。
けれどですね。
部屋にあるサインが目に入ると、気持ちが1㎜上がる気がするのです。
サインなんて、と思っていた自分ですが、
いやいやどうして。ほのかなエネルギーをいただいてます。
そして、「その方」の更なる成功と活躍を望む気持ちにもなります。
人間は主語を認識できないという説を聞いたことがあるでしょうか?
それが本当だとすれば、人に対して良い感情を持つことは自分に対しても反映されるということになるので、そんな打算も含めて気づきがあった出来事でした。
いらないいらないと頑なに排除するより、ちょっと取り入れてみるかといった気持ちがあっても悪くないなと、ミニマリストからシンプルライフにシフトした人間は思います。